2009年09月29日

「Ponyo」 Hayao Miyazaki

2009092901.jpg
宮崎駿の「崖の上のポニョ」がようやくオーストラリアでも公開された。「Ponyo」はディズニーが作った英語版なので、英語字幕ではなく吹き替えになっている。
ストーリーは簡単。人間の男の子を好きになってしまった人魚姫の物語、なのだが、ここに描かれた世界の背景はすごい。
ヒトはこの世界の中で生きるモノの一つとして、プランクトンやクラゲやカニや魚と同じ目線で描かれている。
ヒトの社会は魚の群れと同じ程度にしか重要ではない。
なにしろポニョの引き起こした大洪水で多数の町が水没し、人が大勢死んだに違いないのだが、あまりに緊張感がない。人々はなぜかこういうこともあると平然と受け止めているようだ。
赤ん坊を連れた夫婦はまるでのんびりと休日のボート遊びを楽しんでいるみたいだし、漁村の男たちも海祭りのように賑やかに騒いでいる。
しかも、マンガ版「幻魔大戦」のラストシーンみたいに美しく禍々しい月が地球に異常接近して引力が変化し、いったいどんな天変地異が起きたか、どんなひどい災害に見舞われたか、それはこの映画では描かれていない。
そんな裏にあるストーリーよりも、ここではその見事な映像表現をただ楽しむべきなのだろう。
海の生き物や復活した古代魚は「ナウシカ」の腐海の森の虫たちのように魅力的だし、ポニョが波に乗って宗介を追いかけてくるシーンは素晴らしい。「もののけ姫」でシシ神が爆発するシーンと並んでアニメーション表現の一つの極限だろう。全然関係ないが、アレクサンドル・グリーンの「波の上を駆ける女」を思い出した。
徹底した自然主義というか、5歳児から見た世界の在りようはこのようなものだと納得させられる。そんな表現を、もう老人と言ってよい年齢の宮崎駿ができることはすごいと思う。

2009年09月17日

「Charlie & Boots」Dean Murphy

2009091701.jpg
チャーリーの愛妻グレイスは家族皆でダンスを楽しんでいる最中に突然倒れて死んでしまった。それからというものチャーリーは家で引きこもり状態になる。息子のブーツはそんな父親の姿を見かね、釣りに行こうと言って車に押し込んだ。しかしブーツが目指したのは近所の川などではなくオーストラリアの最北端Cape Yorkだった。父と息子はいろいろな目にあいながら何日も運転し、話し合い、ケンカし、ふざけあう。最初はふさぎ込んでいたチャーリーも次第に明るさを取り戻してゆく。最後に二人は笑いながらCape Yorkで釣り糸を垂れる。
ストーリーは上のようにごく単純なのだが、これは最もオーストラリアらしい映画の一つだ。
Charlieを演じたPaul Hoganの「Crocodile Dundee」、Bootsを演じたShane Jacobsonの「Kenny」もオーストラリアらしさをうまく使っていて面白いが、「Charlie & Boots」はいかにも映画といった作り物の感じがしない。奇をてらわない等身大のオーストラリアが見られる。
チャーリーが住むWarrnamboolのファームやカントリーミュージックの町Tamworth、ケアンズからセスナに乗って見るGreat Barrier Reefなど、オーストラリアに住む者にとって馴染み深い風景が次々と現れる。
ローカルクラブでは爺さん婆さんも一緒に歌って踊り、人々は適度に善いことも悪いこともする。冷蔵庫を開けた時、扉の棚に並んでいるモノがうちのとほとんど一緒だとか、そんな小さなシーンが描かれているのがうれしい。こうしたなんでもない日常をぼくらは愛しているからだ。
オペラハウスやエアーズ・ロックだけでなく、オーストラリアのマジョリティがすごす日常生活を見たい方にお勧め。この映画の普通さに耐えられない人はオーストラリアに来ないほうがいい。

2009年08月12日

「Harry Potter and the Half-Blood Prince」David Yates

2009081201.jpg
ハリー・ポッターの映画はこれで6作目。1作目からずっと観ているが、残念ながら初期の頃の楽しさが次第に減ってきて、今回も2時間半を超える映画なのに、予告シーンの寄せ集めを観たみたいに、全体としては薄味な印象がぬぐえない。
長大な原作をダイジェストしたような感じなので映画としては不出来だ。
ホグワーツで恋愛とスポーツに明け暮れる生徒たちのシーンが長すぎるため、「魔法世界が現実世界を襲う」という緊張感あふれる冒頭と、後半のDumbledoreの活躍が間延びしてしまう。
肝心の「Half-blood price」にまつわるエピソードがちゃんと描かれていので、映画を観ただけでは説明不足でよくわからない部分が多すぎる。
それからもっと魔法の世界が見たい。せっかく映像化するのだから、おどろおどろしく奇妙で魅惑的な絵で表現してほしいものだ。
Luna役のEvanna Lynchは相変わらずぶっ飛んでいて可愛いし、ラストシーンでSnapeがささやいた秘密が次作でどう展開するか楽しみなのだが。

2009年05月03日

「Mary and Max」Adam Elliot

2009050301.jpg
Adam Elliotはメルボルンのアニメーション(正確にはclaymation)作家。2003年にオスカー賞を獲得した彼の前作「Harvie Krumpet」を観て、その独特の絵柄とストーリーに惹かれた。この「Mary and Max」は彼のフルレングスのデビュー作で、期待に違わず素晴らしい出来だった。
時は1976年、メルボルン郊外に住む8才の女の子メリーがニューヨークに住む44才の太ったユダヤ人マックスと文通を始める。住む場所も年も離れていても、二人には共通点があった。Asperger's Syndrome(アスペルガー症候群)を患い誰とも話をしないマックス。不細工でいじめられっ子のメリー。二人とも孤独で誰にも愛されたことがなかった。
物語は20年も続いた二人の文通を中心に進むが、何も解決はしない。メリーの両親は冗談のように死に、毎日チョコレートをむさぼり食うだけのマックスもまたメリーに会うこともできずに死ぬ。メリーは酒に溺れ、夫に逃げられ、家に引きこもりになる。マックスはメリーにメッセージを贈る−「Love yourself first」。ほんの偶然にもこの言葉が自殺しようとしていたメリーを救う。
そして1年後、生まれたベビーを抱いてメリーはニューヨークへマックスに会いに行く。そこで見たものは、天井に張り付けたメリーの手紙を見上げながら幸せそうに息を引き取っていたマックスだった。世界でたった一人だけだが自分のために泣いてくれる相手を見つけたメリーとマックスは幸せなのだろうが、ここで幸せという言葉はあまりに軽すぎる。
彼の描くアニメはチェコの人形劇のように暗い。奥行きのないフラットなディズニーとは対局にある。セピア色に近いダークなトーンで、あらゆる汚れが澱のようにたっぷりとしみこんだ絵だ。細く描き込まれたディテールは、可愛らしく、ユーモアにあふれ、おまけに不潔で歪で残酷だ。DVDが出たらぜひ買ってもう一度細部を観てみたい。
音楽の使い方もうまい。陽気でお気楽なオージーではなく、SPKやニック・ケイヴを生んだオーストラリアの別の面を見せてくれる。
2009050302.jpg

2009年03月31日

「Bottle Shock」Randall Miller

2009033100.jpg
ナパ・ヴァレリーのワインが世界で認知された時の物語。
1976年、パリ郊外で開かれたブラインド・テイスティングで、アメリカのシャルドネが並みいるフランスのグランヴァンを押しのけて1位を獲得した。それはフランスワインが一番と信じ込んでいた審査員たちに大きなショックを与えた。作り手はカリフォルニアのNapa Valleyにある「Chateau Montelena」という小さなワイナリー。代表者として出席したのはサーファーくずれの小汚い若造だった。
物語はこのワイナリーを作った父とそこで働く息子や仲間たちのシーンに始まる。そこへイギリス人なのにパリでワイン・ショップを経営しているSteven Spurrierという男がワイン・コンテストに出品するワインを探しにやって来る。
彼を演じるのは「ハリー・ポッター」のスネイプ役で有名なAlan Rickman。陰気な中に妙な可笑しさもあって役柄にピッタリだ。それにしても彼の暗〜いワイン店には全然客が来なくて、知り合いにタダ酒を飲まれるだけで、どうやって稼いでいたのか(^_^;)。
実話を基にしているので、波瀾万丈なシーンはないが、コミカルなタッチで、何よりもワインに対する作り手の情熱が伝わってくる良い映画だ。スノビィなワイン評論家と違って、皆が美味しそうにがぶ飲みするのもいい。
2009033101.jpg
以前、ナパ・ヴァレーでワイナリー巡りした時のことを思い出した。多くのワイナリーには立派なテイスティング・ルームがあり、大勢の人が大挙して押し寄せていた。テイスティング料としてUS$5(高級ワインにはもっと)払うのには驚いたものだ。オーストラリアではほとんどのワイナリーで、テイスティングはタダだ。
映画の中で、Spurrierがテイスティングの後、そっとお金を置いていき、ワイナリーの人たちがびっくりするシーンがあった。ナパのワインがとんでもなく高額になり商業化が進む前の良き時代だったのだろう。

2009年03月10日

「Gran Torino」Clint Eastwood

2009031001.jpg
クリント・イーストウッドが演じる主人公、ウォルト・コワルスキーはポーランド系アメリカ人。朝鮮戦争へ行き、フォードの自動車工場で働いてきた。普段はオンボロのフォードのピックアップに乗っているが、ガレージには1972年にフォードが作った優美なスポーツカーGran Torino(グラン・トリノ)が、愛用の大工道具や朝鮮戦争時代の写真や勲章と共に眠っている。
2人の息子を育てたが、ウォルトを年寄り扱いするので、仲は良くない。息子の一人はフォードではなくトヨタのセールスマンだ。おまけに孫娘は妻の葬儀にミニスカートとピアスという出で立ちで現れ、ウォルトの眉をひそめさせる。
妻を亡くした後、彼は小さな家に一人で住んでいた。デイジーという老犬をはべらせ、ビールを飲むのが唯一の楽しみだ。町は荒れ果て、ギャングが徘徊し殺伐としている。白人たちは次々と引っ越してしまい、いつの間にか周りはヒスパニックとブラックとチャイニーズとインディアンばかりだ。
隣家にはモン族の一家が住んでいる。英語も通じず、習慣も違う彼らを蔑視し敬遠していたが、Sue(スー)とThao(タオ)の姉弟を通じて、嫌々ながらも彼らと関わってゆく。
彼は人種差別者ではない。血統主義者でもない。実の息子だろうが、可愛い孫娘だろうが、気に入らない者は気に入らないだけだ。自分の身の回りのことは全部自分で面倒を見る。古いモノは修理し、家をメンテし、きちんと芝を刈る。暴力沙汰に巻き込まれても、警察にも頼らない。教会なんてくそくらえと思っているので、神父にも平気で毒づく。
そんな偏屈頑固じじいを見事に演じたクリント・イーストウッドは素晴らしい。口を開けば差別用語とダーティー・ジョークのオンパレードだが愛嬌があって憎めない。78才なのにかっこいい。自立を誇りにし、何よりも正義を知っている。だからウォルトは、自分がタオとスーと関わったことによって起きた悲惨な事件に対して、自分の手で落とし前を付けようとする。
しかし、44マグナムを片手に敵を撃ち殺すダーティー・ハリーはここにはいない。彼はもう、ガキを一人ぶん殴っただけで自分の手をひどく痛めてしまう老いぼれなのだ。しかも彼は頻繁に吐血し、自分の命がもう長くないことを知っていた。
ウォルトは彼の誇りの象徴であるグラン・トリノと勲章を、モン族の少年タオに譲る。自分の尊厳や栄誉を引き継ぐ者として選んだのは、自分の血を分けた息子や孫ではなく、アカの他人のアジア人の少年なのだ。
映画の最後、傷つけられたスーとタオのため、ウォルトは自分の身を犠牲にして復讐を遂げる。
このラストシーンは、アメリカの未来に対して、クリント・イーストウッドが込めた願いのように思える。荒廃したアメリカ社会に良きコミュニティを再生するには自己犠牲が必要なこと。今のアメリカでどれだけの人がウォルトのような覚悟が持てるだろうか。

2009年03月02日

「Milk」Gus Van Sant

2009030201.jpg
舞台は1970年代のサン・フランシスコ。アメリカで初めて、自分がゲイであることをカミングアウトして公職に就いたHarvey Milk(ハーヴィー・ミルク)の生涯を描いた伝記ドラマだ。彼は同性愛者の権利を求める運動の先駆者だったが、1978年、48才の時、市庁舎で市長と共に撃ち殺された。二人を射殺した犯人は、対立する元市会議員のDan White(ダン・ホワイト)だった。
ミルクは以前から暗殺の危険を察知しており、その時には公表されるよう、彼の心情をテープに録音していた。映画ではその録音シーンと、ニューヨークからサン・フランシスコへやって来て、カストロ・カメラという店を始め、ゲイ・リヴォリューションの中心として戦ってゆく様子が描かれる。
映画では最後のタイトルロールで説明されるだけだが、射殺犯のホワイトは二人も殺したにもかかわらず、たった5年で刑務所から出てきた。そしてその後、1985年に排気ガスを車に引き込んで自殺する。わずか39才だった。
Sean Penn(ショーン・ペン)は、ミルク役にぴったりの熱演だ。先日のアカデミー賞で主演男優賞を受賞した。映画は脚本賞も取っている。70年代の風物をうまく映したGus Van Sant(ガス・ヴァン・サント)監督の腕は素晴らしく、ドキュメンタリーとして良くできている。しかし、物語としてはストレートすぎて、ぼくにはちょっと物足りなかった。後半はむしろダン・ホワイトを中心にして描いた方が面白かった気がする。
ホワイトが自殺する前年、1984年にこの映画と同じくミルクの伝記映画「The Times of Harvey Milk」が発表された。それが彼の自殺の引き金になった可能性はある。あるいはもしかしてホワイトもゲイだったのかもしれない。そして妻も子供もある彼にはそのことを自ら認めることはできず、破綻に至ったとか。
まあ見終わった後、いろいろと想像をかきたててくれるいい映画なのは間違いない。

2009年02月24日

「Slumdog Millionaire」Danny Boyle

2009022401.jpg
貧しく悲惨な少年時代を過ごした主人公が、インドでも人気のTV番組「Who wants to be a millionaire?」に出演して見事に億万ルピーを獲得し、最後は、行方の知れなかった初恋の少女と再会するハッピーエンドで終わる。
このTV番組の司会者は実にイヤな奴で、無学で貧しい主人公を馬鹿にしている。わざと間違った答えを教えて陥れようとするが、それが失敗すると、最後の一問になったとき、警察に突き出したのだ。どうやって答えを知ったのかと、主人公が拷問されるシーンからこの映画は始まる。それから、リッチでモダンなTVスタジオと貧困と暴力にまみれた外の世界が交互に描かれてゆく。インドの様々な面を切り取った映像は鮮烈で、個性的な役者たちと音楽も素晴らしい。
ただし、スラム街でたくましく生きる子供たちが生き生きと描かれているなんて生ぬるい評価はとてもできない。昔、インドへ行ったときに見た彼らは「生き生き」なんてしていなかった。外国人が集まる観光地には、この映画と同じような子供たちが大勢群がっていて、あらゆる悪さをしていた。ひたすら貧しく憐れで荒んだ雰囲気をまとい、隙あらばカモにしようと疑り深い目でこちらを値踏みしていた。そんな彼らの姿は今も忘れられない。
最後に、インド映画らしく集団で踊るシーンが付け加えられているが、これはないほうがよかった。たとえばクラシックといわれるオペラやミュージカルでは、カーテンコールでそれまで殴り合っていた相手とにこにこ笑って手を取り合いながら挨拶していてもあまり違和感はない。たとえ劇中で暴力や残酷シーンがあっても巧妙に洗練された表現になっていて、見終わった後まで嫌な感情を引きずることはないからだ。しかし「Slumdog Millionaire」で描かれたヴァイオレンスはそれほど洗練されていない。というか、この監督は残酷描写が上手すぎる。主人公に加えられる執拗な拷問シーンや子供たちへの残虐な仕打ちは、ラストシーンのハッピーなダンスを嘘くさくさせてしまう。
この映画は昨日、アカデミー賞でベスト作品賞と監督賞を取った。インドが抱える貧困や宗教対立という問題と純愛物語をうまく絡めて描き出し、確かに良くできた映画だが、ぼくはもう一度見たいとは思わない。

2009年02月03日

「Doubt」John Patrick Shanley

2009020301.jpg
時は1964年。舞台はニューヨークのカトリックスクール。校長Sister Aloysius(Meryl Streep)は鉄の規律で学校を統率し、生徒たちにも部下の教師たち(修道女でもある)にも厳格で禁欲を強いる。夜は修道女たちと一緒に質素な食事を黙々と食べるだけだ。一方、神父Father Flynn(Philip Seymour Hoffman)はタバコを吸い、仲間たちとワインを酌み交わし、談笑しながら美味しそうなディナーを楽しんでいる。生徒たちにも気さくで優しい。
まるで正反対の二人は当然のごとく対立し、そしてある教師の疑惑−神父がペドファイルかもしれない−から決定的な決裂を招く。
メリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンは共に迫真の演技だ。特にメリル・ストリープは「プラダを着た悪魔(The Devil Wears Prada)」の鬼編集長に匹敵するイヤな奴を演じていて、あまりの理不尽振りがすごい。
校長は何の証拠もなく、自ら抱いた疑いだけで神父を学校から追放してしまう。神父が実際に罪を犯したのか、最後まで真相は明らかにされないまま映画は終わる。
原作者・監督のJohn Patrick Shanley(ジョン・パトリック・シャンリー)が時代設定を1964年にしたのは、ケネディ大統領の暗殺を念頭に入れていたのだろう。あの暗殺事件の真相は今も闇の中だ。すべては疑惑に包まれたまま放置され、世界は続いている。この映画と同じように。
一つの疑いが人生を変えてしまう。現実はそうなっていることはもうわかっている。認識と表現がその段階で留まるのなら、TVや新聞で読めるニュースで十分だ。この映画は良くできているし、4人の演技はすばらしいのだが、ぼくは映画は別の世界を見せてほしいと願っているので、あまり楽しめなかった。メリル・ストリープを見るなら「マディソン郡の橋(The Bridges of Madison Country)」や「Mamma Mia!」のほうが好きだ。

2008年12月15日

「Australia」Baz Luhrmann

200812151.jpg
主演はNicole Kidman(ニコール・キッドマン)とHugh Jackman(ヒュー・ジャックマン)、監督・脚本はBaz Luhrmann(バズ・ラーマン)。ニコール・キッドマンは、同監督の「ムーラン・ルージュ」でも主演していた。
監督も出演者もオーストラリア人で、タイトルも「オーストラリア」というのだから、直球ど真ん中の映画だ。おまけに製作費もオーストラリア政府が援助したという。といってもオーストラリア全体を描いたモノではない。まあ3時間でオーストラリアの複雑な自然と歴史をまとめるのは無理だろう。
この映画の時代背景は1939年〜42年、第二次世界大戦中で、場所はノーザン・テリトリーの牧場からダーウィンにかけて。日本軍によるダーウィン空爆がクライマックスになる。終盤はなかなかツイストのきいたストーリーでエキサイディングだ。日本軍がアボリジニを射殺するシーンは嫌いだが。
出演者は皆個性的でうまい。アボリジニの長老と孫(素晴らしい眼をしている)や牛に踏み殺されたジャック・トンプソンもいい味を出している。
200812152.jpg
良く練られたストーリーだが、オーストラリアの歴史を知らないと、ちょっとわかりにくい箇所があるかもしれない。映画の中ではoutbackの風景はあくまでも美しく、大量の蝿や蚊に襲われたりしない。まあそのへんはご愛敬。
200812153.jpg
イギリス上流階級婦人とカウボーイとのラヴ・ロマンスとはいえ、実は結構重い話なのだが、笑えるシーンも用意してある。
砂漠地帯をボロいトラックでのろのろ走っているとき、カンガルーの大群がぴょんぴょん横を跳んでくる。そのうち一匹を夕食用につかまえて、一瞬でトラックの屋根に載せるという場面がある。このシーンはギャグなのだが、カンガルーは砂漠になんか住んでいないことを知らないと、本気にする人が多いだろうなあ。「Kill Bill vol.1」で、ユマ・サーマンが日本刀をJALに手荷物として持ち込んでいたのと同じように、わかる人にしか笑えない。

2007年にぼくらがダーウィンへ旅行に行ったとき、ちょうど現地でこの映画を撮影していたので、公開を楽しみにしていた。まあ、むやみに人が死ぬとか、そのわりに最後は出来すぎのハッピーエンドだとか、いろいろ文句はあるだろうが、総体的にはいい映画なので日本でも公開されたらぜひご覧ください。

2008年10月24日

「Caramel」Nadine Labaki

20081024.jpg
監督のNadine Labaki(ナディン・ラバキ)は主演も務めていて、大きな眼が印象的な美しい女性だ。
レバノンの首都ベイルートにある下町のヘアサロンで働く女性たちを取り巻く物語。このサロンではエステもやるので、砂糖を溶かしてキャラメルを作り、脱毛ワックスとして使う。甘くて痛い映画の内容とぴったりのタイトルだ。
レバノンはフランスの影響が強いそうだが、男性優位のアラブ社会だ。女性一人では、ホテルも予約できない。処女でないと結婚できないので、そうでない女性はこっそり病院に行って手術しなければならない。彼女たちは様々な妥協と諦めを強いられている。
今のレバノンで、彼女たちにとってできることは、これが精一杯なのだろう。レバノンで、今そこがどうなっているかはよくわかった。だから、次はもう一つその先を見たい。
ラストで、あるレスビアンのお客が意を決して、長く伸ばしていた髪を切ってもらう。身軽になった彼女はウインドウに映るショートカットの自分の姿を見て、とてもうれしそうだ。あの彼女がこれからも、笑顔で楽しく生きていけるような未来が見たい。
レバノンの南の国、イスラエルの映画「You Don't Mess With The Zohan」みたいにハチャメチャでもいから。

2008年10月02日

「WALL-E」Andrew Stanton

20081002.jpg
「Finding Nemo」や「Ratatouille」を作った Pixar Animation Studiosの最新作。
地球に一人取り残された、ゴミ処理ロボットWALL-E(ウォーリー)の物語。WALL-EはWaste Allocation Load Lifter Earth-Classの略だ。彼は荒廃した地球で700年も黙々とゴミ処理をし、スクラップのタワーを築いてきた。この、人類がいなくなった後も、残された機械だけが稼働している様子は、レイ・ブラッドベリの「火星年代記」などを思い出させて、SF好きにはたまらなく懐かしい未来のシーンだ。
毎日毎日プログラムされた通りに働くかたわら、ガラクタの中から自分の好きなモノを見つけてコレクションしていたり、古いビデオテープでミュージカルを観たりしているウォーリーの仕草がかわいい。
ゴキブリを唯一の友とするウォーリーは、ある日、植物の芽を見つける。そして、イヴという調査ロボットがやってきてから物語は急展開する。
ウォーリーはいかにも旧式の産業用ロボットで小汚いが(なにしろキャタピラーで移動する)、イヴのほうは最新式。空も飛べるし白くてつるつるしていて、アップル・コンピュータのデザインのようだ。ウォーリーはブルドーザーに乗ったETで、イヴはクリオネのようにも見える。
この映画にはたくさんのロボットが登場するが、どれもとってもかわいい。宇宙船で働く熱心なお掃除ロボットはうちにも欲しくなった(^.^)。
逆に人類はぶくぶくに太って、カウチポテトのアメリカ人のなれの果てのようだ。
最後はハッピーエンド。人類は地球に戻り、再び緑あふれる大地を取り戻す。heart warmingな仕上がりだが、その背景には、消費と快適を求める社会がいかに破壊的かという認識が横たわっている。
まあ、赤ん坊の頃から機械に世話され、歩くことも必要としなくなった怠惰な人類が、今更ゴミと瓦礫の山になった地球に戻って、原始生活からやり直したいと願うとは思えないが。
上の写真は、電球やルービック・キューブなど自分のガラクタ・コレクションを見せて、一生懸命イヴの気を引こうとしているウォーリー。このへんの男の子らしさがかわいい。

2008年08月02日

「You Don't Mess With The Zohan」Dennis Dugan

zohan.jpg
主人公Zohan(ゾーハン)はイスラエルのNo.1諜報部員。といっても007のようにクールでもダンディでもない。のっけから「Borat」やマイク・マイヤーズの「オースティン・パワーズ」ばりにくだらなくて下品なシーンが満載で、結構好きだ。
Zohanは紀元前から連綿と続くパレスチナとの闘争にうんざりしていた。ある夜、ヘアデザイナーになるという夢を両親に打ち明けるが笑い飛ばされてしまう。そして彼はある事件を利用してニューヨークへ逃亡する。
お馬鹿で下世話なシーンの連続だが、その下には人種や宗教や経済にかかわるシリアスな問題が横たわっている。腕利きの殺し屋たちの密かな夢が美容師になることや靴屋をやることというのもいい。
場末の美容室で働き始めたZohanを殺そうとパレスチナから追っ手が来る。しかし最後には、その殺し屋と一緒に手を組んで、本当の敵であるアメリカの大手ディベロッパーに対抗し、地上げから自分たちの町を守る。彼は自分のヘアサロンを開き、彼の夢を一笑に付した両親とも和解する。絵に描いたようなハッピーエンドだ。
こうなればいいと本当にそう思う。アメリカが新しい人生を送るにふさわしい新天地だった時代がまた来るかどうかはわからないが。
上の写真は、踊りながらシャンプーするZohan。別室でのスペシャル・サービス付きなのでご婦人がたに大人気(^.^)。

2008年07月16日

「Mamma Mia!」Phyllida Lloyd

MammaMia.jpg
有名なロングラン・ミュージカルの映画版。ABBAのヒット曲で構成されたロマンチック・コメディーだ。「マンマ・ミーア!」の舞台は、ギリシャのエーゲ海に浮かぶ小さな島。20才のソフィーは結婚式が決まるが、誰が父親かは知らない。母親のドナの日記を盗み見た彼女は、父親候補の3人にこっそり招待状を送って呼び寄せる。ドナのイカレタ友人二人も来て、ドタバタの結婚式が始まった。。。
ドナ役のメリル・ストリープをはじめ実年齢60才近い役者たちが、いい歳して歌って踊りまくる。5代目の007をやっていたピアース・ブロスナンもあまりうまくない歌とハデハデのピチピチパンツ姿を披露していて、その格好良さをかなぐり捨てたナサケナさがとてもいい。もちろんソフィー役のアマンダ・セイフライドは歌も上手いしとても可愛い。ボーイズたちや脇役も皆個性があって面白い。
ギリシャの風景が美しい。白い壁とエーゲ海の青、ブーゲンビリアの赤。2年前に旅したロードスやサントリーニを思い出した。舞台になるホテルのボロさやロバやヤギがうろうろしているのもギリシャらしくていい。
監督のフィリダ・ロイドはミュージカル版の演出家だそうだ。彼女は舞台とはまた違った魅力にあふれた楽しい映画を作ってくれた。

2008年06月05日

「As it is in Heaven」Kay Pollak

heaven.jpg
「As it is in Heaven(原題:Så som i himmelen)」は、スウェーデンのKay Pollak(ケイ・ポラック)監督による2004年の作。音楽の持つ素晴らしい力を描いた傑作だ。
昨日、ジョーン、エリザベス&クリスと一緒に5人で観てきた。以前から評判の映画で、シドニーのノースにあるCremorne(クレモーン)という所にある老舗の映画館「Hayden Orpheum」で1年以上も上映されている。オーストラリアで最長のロングランだそうだ。

主人公はダニエルという世界的に有名な指揮者。彼は幼い頃、酷いいじめにあって母と一緒に故郷の町を去ったが、長じて、8年先まで公演スケジュールが埋まるような売れっ子の指揮者として活躍していた。ただ彼の演奏スタイルは、鼻から出血しながらもタクトを振るような、自分の身体もオーケストラもぎりぎりに追い詰めるような激しいものだった。そんな演奏活動の末、ついにステージで倒れてしまう。
引退を余儀なくされた彼はすべてを捨てて故郷へ帰る。スウェーデンの北にある小さな田舎町だ。幼い頃彼が通っていた小学校が廃校になっていたので買い取り、そこに住み始める。ダニエルは隠していたが彼の素性はあっという間に知れ渡り、いやいやながらも教会の聖歌隊を指導することになる。
音楽しか知らなかったダニエルは、この地で、初めてのことをたくさん経験する。自転車に乗ること、薪割りをすること、人と触れ合うこと、そして、愛していると言うこと。ダニエルは小さな頃から思い続けてきた−「人の心を開く音楽を作りたい」。
発声の基礎も知らない素人ばかりの聖歌隊のメンバーに、ダニエルは言う。「まずは聴くんだ。音楽は君の周りにある。自分の身体と心を解放し、自分の音(tone)を探すんだ」ダニエルと彼らが一緒に歌い、踊り、関わり合う中で、少しずつ変化が訪れる。ダニエルと愛するようになるLena、歌うことをおぼえた知的障害者のTore、夫である牧師の偽善を糾弾するInger、暴力を振るう夫と決別するGabriella、等々。皆、音楽によって少しずつ強くなってゆく。「私の人生は私のもの」と言えるようになるまで。

ラストシーンは圧巻だ。
聖歌隊はオーストリアでのコンクールに出場することになった。その当日、会場に急ぐダニエルは心臓発作に襲われ、トイレで倒れて頭を強打し出血する。天井のスピーカーからは演奏会場の様子が聞こえてくるが、ダニエルはもう立ち上がることも出来ない。
会場では、ステージに上がった団員たちが、ダニエルが来ないことに心配しながら待っている。不安ととまどいに揺れる中、怯えたToreがLenaにしがみつき「あー」という声を発する。彼の声に導かれ、団員たちは勇気を出して一人ずつ声を重ね、そのハーモニーは会場一杯に響き渡り、やがて観客も唱和してゆく。まだ言葉にもなっていない、ただの「あー」という声、生まれたばかりの始原の歌が、すべての人を一つに包みこむ。ダニエルは薄れゆく意識の中で、その声を聴いて微笑みを浮かべる。まるで天国にいるように。「to create music that will open people's hearts」という彼の望みはかなえられた。
死の間際、彼は夢を見る。草原の中、いじめられて泣いていた幼い頃の彼の姿が見える。彼は駆け寄り、小さな自分自身を抱き上げる。彼はやっと追いついた。泣いている自分を救いに来た。傷ついた身も心も癒してくれる音楽の中で、彼は静かに微笑んでいた。

2008年06月03日

「The Counterfeiters」Stefan Ruzowitzky

counterfeiters.jpg
「The Counterfeiters(原題:Die Falscher)」
Stefan Ruzowitzky(ステファン・ルツォヴィツキー)監督による、ドイツ/オーストリア合作映画。英語の字幕入り。counterfeiterというのは贋金作り屋のこと。腕利きの贋札作り師である主人公はナチスに捕らえられ、ユダヤ人強制収容所に送られる。過酷な強制労働に明け暮れる毎日、彼は絵描きとして他の収容者よりもマシな待遇を得る。そしてさらにイギリス・ポンドやアメリカ・ドルの贋札を作るという秘密のプロジェクトに組み込まれる。このチームの中で、彼はプロダクト・マネジャーとして、完璧なニセモノのポンド札を作り上げる。パスポートの偽造など朝飯前だ。しかし彼らが生きる収容所の悲惨な状況は変わらない。日々同胞が家族が殺されていく。彼らにとって優秀な技術者として働くことが、収容所で生き延びる唯一の術だ。だがそうして一生懸命働くことはナチスに加担し、さらに殺戮を進めることになる。自分の命と正義の狭間で揺れる彼らの激しい葛藤と苦悩が生々しく描かれている。
主役のKarl Markovics(カール・マルコヴィッチ)はオーストリアのTVシリーズ「Inspectoer Rex」の名脇役シュトッキンガーでお馴染みだ。彼は自分が主役のTVシリーズ「Stockinger」も持っている。ザルツブルクの風景が美しく、ぼくの好きなTV番組の一つだ。
この映画は暴力シーンも多く、とても重いテーマを扱っているのだが、彼の飄々とした持ち味が救いになっている。終戦後、モンテカルロのカシノでわざと無謀な賭けをし、ニセモノのアメリカ・ドルを使い果たした後、浜辺でダンスを踊るラスト・シーンもいい。
ナチスの将校の描き方も興味深い。収容所では冷酷非道なくせに、家では家族を愛するとても良い父親であり、ドイツが負けそうになるとさっさと故国を捨ててアメリカに逃げだそうとするのだ。どうしようもなく情けない男だ。立場は人を変える。人とはそういうものなのだろう。

2008年04月28日

「Lars and the Real Girl」Craig Gillespie

lars01.jpg
ダッチワイフを恋人として暮らす孤独な男の物語、と書くとキワモノみたいだが、これは同様の設定を描いた従来の映画やマンガとは全然方向が違う。笑いつつしんみりさせられ、最後は希望で終わる。
アメリカの小さな田舎町。Lars(ラース)は兄夫婦の家の庭にある寂れた小屋に一人で住んでいる。殺風景な彼の部屋には暖かさのかけらもない。彼は他人から触れられるとパニックを起こしてしまう。兄夫婦を含め人との関わりをできるだけ避けて暮らしているが、彼はきちんと仕事をし、毎週教会に通い、ちょっと変わっているけれど、親切で優しい奴と、町の人たちに受け入れられている。
ある夜、そんな彼が自ら兄夫婦宅を訪れ、紹介したい女性がいると言う。兄夫婦は驚きながらも大いに喜んだが、ラースが連れてきたのは、なんとインターネットで買った等身大sex dollだったのだ。愕然とする二人を気にも留めず、ラースはこの人形をビアンカと呼び、うやうやしく紹介する。下の写真は、ビアンカを生身の人間として扱うラースを見て、ドン引きしている兄夫婦。
lars02.jpg
ラースが完全にいかれてしまったと思った兄夫婦は、彼をうまく言いくるめて医者に連れて行く。医者は兄夫婦に、ラースの妄想につきあってやるほうがいい、とアドバイスする−Get alog with it。最初は気味悪がっていた町の人たちも、ラースのためを思ってビアンカを人間扱いし始める。ビアンカに語りかけ、花を贈り、髪をセットし、パーティーで一緒に踊ってやる。
lars03.jpg
ラースとビアンカは幸せに暮らし、そしてついに彼はビアンカにプロポーズするのだ。ここから物語は大きく変わる。ネタバレになるのでこれ以上は書かないが、町の人々は最後までラースの妄想につきあっていく。嘘と知りつつもまるでラースの妄想を共有しているようだ。もし人々がこういう共同幻想の使い方が出来るようになれば、世の中もっと楽しくなるのではと思う。映画の進行はちょっとスローで結末が読めてしまうが、久しぶりのheartwarmingな映画でお勧め。

ところで、今日この映画を観に行ったパディントンで、シャーリーの娘のマリリンと彼女のボーイフレンドのトムにばったり出会ってびっくりした。トムは先週アメリカから来たばかりだそうだ。この映画はアメリカで観て気に入ったので、マリリンにもぜひと誘ったとのこと。カウボーイ姿が似合いそうなごっついトムがこんな映画が好きとはちょっと意外で微笑ましかった。

2008年03月25日

「The Bucket List」Directed by Rob Reiner

bucketlist.jpg
余命数ヶ月と宣告された末期ガン患者、エドワード(ジャック・ニコルソン)とカーター(モーガン・フリーマン)の物語。
会社を大きくすることだけが生き甲斐だったエドワードは、億万長者だが家庭もない。ただひたすら家族のために働き通しだったカーターは、66才になってもしがない自動車修理工だ。まるで共通点のない対照的な二人が、病院で偶然出会い、死ぬ前にやりたい事のリストを作る。
病院での治療中、抗ガン剤の副作用で苦しむ二人の様子がリアルだ。カーターは妻を制止し、治療を断念する。眠れぬ夜に苦悶し、便器をかかえて吐き続けるような日々を誰が続けたいか? 最初はカーターが戯れに作ったリストだったが、二人はそれを実行に移す。死ぬ前にやりたいことといっても、たわいもないことばかりだ。スカイダイビング、入れ墨、カーレース、サファリ、万里の長城をバイクで走ること等々。エドワードのプライベート・ジェットで世界を駆けめぐり、二人は一つずつ実行しては線を引いて消してゆく。
短いが贅沢な時間を過ごした後、カーターが先に死ぬ。最後はヒマラヤの山頂に二人の遺灰が納められ、リストに残っていた彼らの最後の望みはかなえられた。
とても重いテーマなのだが、過度に深刻になりすぎないようコメディー・タッチで仕上げてある。それでも、私の父も末期ガンなので、映画の最後の方は観ているのが辛かった。誰でも死ぬという事実に対しては何もすることができない。救いようがないのだ。
死期の迫ったカーターはエドワードに手紙を残していた。その中には『Find the joy in your life』と書かれていた。死にゆく人に向かって、私はそんなことが言えるだろうか。カーターは『今からでも遅くない』と言ったが。

この映画を観た後、なぜか40年近く前に読んだ星新一の「鍵」を思い出した。『今の私に必要なのは思い出だけだ。そしてそれは持っている。』と言って静かに死んでいく孤独な男の物語だ。もうこれで十分だと思えるような思い出を持つことができたこの男は幸せだ。

2008年02月05日

「The Kite Runner」Marc Forster

kite.jpg
「The Kite Runner」Marc Forster

昨日に続きまた映画を観に行ってきた。まあこういう時もあるのです。今日も一日雨だし。
「The Kite Runner」は、アフガニスタンからアメリカに亡命したKhaled Hosseini(カレド・ホセイニ)の同名の小説の映画化。主な舞台はアフガニスタンのカブールで、ソ連やタリバンに破壊される以前と以後の対比が興味深い。最後はほろ苦いハッピーエンドだ。ぼくはどんな形であれハッピーエンドのほうが好きなので、権力にしがみつく臆病な男を殺せなかった「Lust,Caution」より気に入った。
主人公の少年アミールは裕福な父と二人暮し、物語を読んだり書いたりするのが好きな、気の弱い子だった。使用人の子ハッサンとはいつも一緒に遊んで兄弟のように育った。凧揚げ大会(というか凧糸を切り合うKite Fight)でアミールはハッサンとペアを組み優勝し大喜びする。その直後、忌まわしい事件が起き、アミールはハッサンを裏切り、さらに嘘をつき卑劣な手でハッサンと彼の父を家から追い出してしまう。仲良かった二人はもう二度と会うことがない。
この映画には単純素朴な正義や愛情は存在しない。いろいろな要素がtwistされ、複雑に絡み合っている。
アミールの父は、勇敢であること恥を知ることを常にアミールに説いて聞かせた。パキスタンへ亡命する時、国境で武装した兵士から女性を身体を張って救った。しかしその勇気ある父は、実は使用人の妻に手を出し子供を作らせるという不義を犯していたのだ。
また、戦闘で破壊された街の廃墟に一人残り、孤児たちの面倒をみている男がいる。彼は孤児たちを守り食べさせるため、孤児を一人ずつ生贄にさし出さざるを得ない。たいていは女の子、時には男の子をタリバンに売り、その金で孤児たちは生きていられるのだ。
アミールは亡命先のアメリカで小説家となり、結婚して幸せに暮していたが、あるきっかけで、ハッサンの息子を救い出すため、パキスタンからアフガニスタンに向かうことになる。ハッサンは殺され、彼の息子はタリバンに売り飛ばされていたのだ。荒廃した街の中、アミールは命をかけてハッサンの息子を救い出し、アメリカに連れて帰ることに成功した。
アミールがハッサンの息子と一緒に凧揚げをするラストシーンは感慨深い。しかしアミールは、自分がハッサンに対して犯した裏切りは、最後まで誰にも言わず隠している。ハッサンの息子を引き取る口実のため、父の不義は打ち明けたのにだ。
アミールも彼の父も罪を背負っている。人は本当に罪を贖うことができるのだろうかという問いに考え込まざるを得ない。

2007年11月26日

「Control」Anton Corbijn 2007

control.jpg
「Control」はアントン・コービン監督による、Joy Divisionの故Ian Curtis(イアン・カーティス)のドキュメンタリー映画。原作はイアンの未亡人Deborahが書いた「Touching from a Distance」だ。
もう30年近くも前になるが、Joy Divisionの「Unknown Pleasure」と「Closer」が大好きだった。イアンは、ぼくと同じ1956年に生まれ、2枚のアルバムを残して、1980年に自宅の洗濯室で首を吊ってしまった。イギリスの小さな田舎町で生まれたJoy Divisionはぼくらの時代のドアーズだった。彼らの音楽をリアルタイムで体験できたことは僥倖だ。
この映画は、イアンが自殺した理由について仮説を提示し、それを楽しむという映画ではない。イアンが高校を出て結婚し、職安で働きながら、バンドで歌うようになり、23才で自殺するまでの短い青春時代が、淡々と描かれているだけだ。モノクロームの画面で、イアンが生まれ育ったManchester(マンチェスター)郊外の薄汚れて寒々とした工場街や、彼やバンド仲間が陥っていた当時の閉塞感が、端正に写し取られている。イアンを演じたSam Rileyを始め出演者はとても素晴らしい。ライヴのシーンも当時の雰囲気が良く伝わるリアルな演奏だ。
彼が自殺した理由はわからない。
若くして結婚した妻のデボラは家庭的で、子供もでき、彼の音楽活動を献身的に支えていた。ところがイアンは、レコード会社を通じて知り合ったアニックというベルギー女性と不倫し、なんと彼女をツアーに連れて行く。後でそのことがデボラにばれて問い詰められても何も答えない。一言も口を開かない。この時のイアンは寒気がするほど酷い男だ。突っ立ったまま何も言わず目をそらしデボラを完全に拒否しているのだ。
そしてイアンは度々癲癇の発作を起こし苦しんでいた。癲癇を抑える薬のせいで鬱病のようになってしまう。それが嫌で薬をやめると、ステージで、家で、イアンを容赦なく発作が襲う。
イアンはどうしようもなく弱い男だったのだろう。持病の癲癇、デボラとの不仲、アニックとの不倫、そしてステージで歌うことのプレッシャーに彼は耐えられなかったのだと思う。彼は「She's Lost Control」と歌っていたが、最後にコントロールを失ったのは彼の方だった。デボラに当たり散らして家から追い出し、激しい癲癇の発作に襲われた後、彼は洗濯室の物干しロープに目をやるのだ。
最後のシーンは火葬場である。音の無い映像の中、イアンを失った人たちの空しさとやりきれなさが伝わってくる。
今のぼくはJoy Divisionを頻繁に聞くことはないが、かつてその音が必要だったことは確かだ。イアンのように死んでしまった人たち、人前で演奏することを止めてしまった人たちも大勢いるが、生き延びてしまった人たち、今もやり続けている人たちのほうに、より興味がある。
たとえばヴィニ・ライリー。イアンと同じマンチェスター出身の彼は今もThe Durutti Columnを続けている。写真で見る姿は、昔、六本木のインクスティックで見たときと変わらずほっそりしている。
たとえばジョン・ライドン。イアンやぼくと同じ1956年に生まれたもう一人のこの男は太った身体を揺らして、セックス・ピストルズ30周年記念再結成コンサートなんぞをやっている。マンチェスターへもツアーに行ったようだ。イアンはマンチェスターで見たピストルズのライブに衝撃を受けて歌い出した。彼のような男がまた生まれるだろうか。

2007年11月14日

「4」Tim Slade 2007年 Australia

4poster.jpg
「4」Tim Slade 2007年 Australia

ヴィヴァルディの「四季」をめぐるドキュメンタリー。「春」の章は東京の桜、「夏」はオーストラリアの暑く乾燥した荒野と雷雨の中で、「秋」は紅葉し始めたニューヨークで、「冬」はフィンランドのラップランドの雪の中で、4人のヴァイオリニストが4つの場所で演奏し語る。
春・東京      Sayaka Shoji(庄司紗矢香)
夏・オーストラリア Niki Vasilakis(ニキ・ヴァシラキス)
秋・ニューヨーク  Cho-Liang(Jimmy) Lin(チョー=リャン"ジミー"・リン)
冬・フィンランド  Pekka Kuusisto(ペッカ・クーシスト)

満開の桜の中、たくさんの人がお花見にくりだしている。そのざわめく季節を迎えて、庄司紗矢香が子供たちにレッスンしながら、「春」の音がいかに自然の音と感応しているかを語る。そして古い日本家屋の畳の部屋で行われる小さなコンサートはすばらしい。
Nikiはギリシャ人とドイツ人の両親のもと、アデレードで生まれた。列車で灼熱のアリス・スプリングスへ演奏旅行に行き、また、飛行機でThersday Island(木曜島)に飛び、島人たちのお祭りで、外の雷に負けない激しい「夏」を披露する。ニューギニアとオーストラリアの間にあるこの小さな島は、第二次世界大戦前までは、ボタン材料の白蝶貝を求めて日本人のダイバーが多数居住していた所だ。
Jimmyは台湾で生まれ、小さい頃に父を亡くし、母はオーストラリアに住む。彼にとってニューヨークはホームだという。Jimmyと同じくいろいろな国からここに移り住んだ音楽仲間と一緒に、馴染みの店でランチを食べ、ニューヨークの魅力を語る。
4人のヴァイオリニストは皆すばらしいが、ぼくは特にフィンランドのPekka Kuusistoが気に入った。彼はいかにも北欧系の金髪碧眼なのだが、ぼさぼさの髪とジーンズ姿で陶酔系の演奏をする。上を見上げて、ポカンと口を開けて、目を見開いてヴァイオリンを弾く。彼の中に何かが降りてくるのを待つかのようだ。雪の中を女の子が着るようなふかふかのコートを着て友人たちと歌いながら歩いてはばったり倒れてみたり、話しぶりも飲んで騒ぐのが好きらしいやんちゃな感じがとてもイイ。「のだめカンタービレ」に出てくる峰龍太郎をちょっと思い出した。
映画の最後のシーンはとても印象的だ。夜明けの薄明かりの中、Pekkaがふとヴァイオリンを手に取り、窓に寄って、小さく「春」の章を弾き始める。それに呼応するように庄司紗矢香が合わせ、そしてNikiとJimmyが続き、4人と彼らの世界が「四季」でつながっていく。オーストラリアから生まれた、音楽への愛にあふれた傑作だ。

2007年10月09日

「Ratatouille」Brad Bird

ratres.jpg
「Ratatouille」Brad Bird
ディズニーアニメだが、結構フランスらしい仕上がり。舞台がパリのレストランなのに、全員英語でしゃべっているが(^_^;)。
今週はまだスクールホリディなので、映画館には親子連れが多い。上演時間は2時間近くあるが、テンポのいいストーリー展開と動きに子供たちは大喜び。終わった時には大勢拍手していた。
この映画は見る人に挑戦的だ。なにしろ、汚い、臭い、病原菌の巣の代名詞のようなネズミが主人公で、しかし彼はフランス料理の天才シェフなのだ。ネズミなんか一匹でも見るのがイヤという人にはツライかもしれない。一匹どころか、本来調理場にいてはいけないネズミがうじゃうじゃと大群で料理し、しかもその料理を人間が食っているのだから。一応、ネズミたちは蒸し器に入ってサニタイズしていたが(^.^)。
レストランのキッチンの様子や美しく繊細な盛りつけ、高級ワインのセレクト、パリの町並みや下水道の小汚さもよく描かれていて、細部に手を抜いていないので、大人でも楽しめる。
登場する人間たちもキャラが立っているのでおもしろい。ぼくは、ネズミに負けた料理評論家のAntono Egoが気に入った。ちなみにEgoの声はPeter O'Tooleだ。
独立して開店したビストロで、たくさんの人とネズミたちが、食事を楽しんでいるラストシーンは心温まる。

2007年10月07日

「The War on Democracy」John Pilger

war.jpg
「The War on Democracy」John Pilger
John Pilger(ジョン・ピルジャー)はオーストラリア出身のドキュメンタリー作家だ。TV界で活躍してきて、映画ではこの作品が最初だという。
ヴェネズエラのHugo Chavez(ウーゴ・チャヴェス)大統領へのインタヴューを主軸に、グアテマラ、ニカラグア、ボリビア、チリなど中南米の国々でアメリカ政府が行ってきた数々の悪行を暴き出している。タイトル通り「民主主義に対する戦争」なのだ。
アメリカ政府はなぜ中南米に介入したか? 石油が、天然ガスが、バナナが欲しかったからだ。そして社会主義への恐怖感を梃子に、国家安全のためと称して、軍事的経済的な暴力で他国を「民主化」しようとした。その成果の一つであるチリは「模範的な民主主義」の国とされ、サンティアゴの表通りには経済発展を象徴する高層ビルが立ち並んでいる。しかしその裏では、ゴミの山をブタと一緒に漁る人たち、生まれたての赤ん坊を抱いて路上で暮らさざるをえない人たちがいる。彼ら「負け組」は切り捨てられた。
ある男がつぶやく「私たちの国には海があり、銀も金も採れる。それなのになぜ私たちはいまだに貧しいのか?」
その構造を作り出したのはアメリカなのだ。マイケル・ムーアの「シッコ」でも描かれていた極端な貧富の差を生む新自由主義的な経済政策を自国内ばかりでなく中南米の国々へも押しつけた。一握りの金持ちと権力者が既得権益を維持するためだ。
オーストラリアはまだ大丈夫なようだが、日本はどうだろうか?
民営化と自由化という耳障りの良いお題目にごまかされて、気がついたら、今のアメリカのように中流家庭が没落し、貧富の格差が進んでいないだろうか。

2007年09月11日

「The White Planet」Canada/France 2006年

舞台は北極。氷の世界で生きる動物たちのドキュメンタリーだ。極寒の中での撮影はさぞ大変だったことだろう。
吹きすさぶブリザードの中で100日間も自分は何も食べずに雪の下の巣穴にこもって2匹の子供を育てる北極熊の母親、餌場になる草原を求めて数ヶ月もツンドラを渡り歩くカリブーの群れ、魚を追うクジラたち、暖めていた卵をキツネに獲られて鳴く親鳥。
彼らは食い食われる。彼らの生は常に死と隣り合わせだ。空を彩るオーロラや満月の下で文字通り懸命に生きている。
仄かに発光するクラゲや餌をもとめて移動するタコの姿を見ると、その禍々しい美しさに驚異の念を抱く。映画のハリー・ポッターやロード・オブ・リングスなどで描かれた魔術の世界よりもはるかに異形で魅力的なsense of wonderを感じることができる。
「The Sense of Wonder」とはRachel Carson(レイチェル・カーソン)が最後に残した小さな本の題名でもある。彼女は言う。
『地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。たとえ生活のなかで苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通ずる小道を見つけ出すことができると信じます。』
その通りだと思う。自然への畏敬の念と生きることへの感謝を教えてくれるものがある。傑作だった「March of the Penguins」と共にこの映画もその一つだ。
音楽が印象的で、誰かなと思って調べたら、Bruno Coulais(ブリュノ・クーレ)で「Les Choristes」の音楽を担当した人だった。このフランス映画については、7月2日に書いた。
http://homestayinsydney.sblo.jp/archives/20070702-1.html
北極では地球温暖化のため今も氷が溶け出している。巨大な氷壁が崩れて次々と海に沈み、北極熊たちは住処を奪われた。この映画で描かれた風景や動物たちの姿はもう二度と見られないかもしれない。

2007年08月14日

「Sicko」Michael Moore

アポなし取材、突撃インタビューでおなじみ、マイケル・ムーアの第3弾、「Sicko」を観てきた。
「シッコ」という発音は日本人としてナンだが、アメリカの俗語で「アタマがイカレている」という意味。これはもちろん、この映画で描かれているように、アメリカの医療保険システムがいかに狂っているかを表したものだ。
前半では、アメリカの保険と医療制度の悲惨な状況が描かれる。ようするに金持ち以外はまともな治療を受けられない。保険会社は、どんな無茶な理由を付けてでも、支払いを拒否しようとする。ほんの一握りの人たち、−保険会社と製薬会社と、そして医療業界と癒着した政治家たち−が利益を独占している。国民皆保険を推進しようとしたヒラリー・クリントンには圧力がかけられた。
では他の国ではどうかと、カナダ、イギリス、フランス、キューバを訪れ、アメリカに比べて、彼らの医療保険制度がいかにすばらしいか、マイケル・ムーアは衝撃を受ける。医療費や薬が安いのは、政府が手厚い補助をしている(=税金でまかなっている)からだ。これは、ロナルド・レーガン以降のアメリカ政府が「社会主義的だ」と言って退けてきたシステムだ。だが、これらの国の人々はアメリカ人よりもはるかに健康的で幸せな生活をおくっている。アメリカは世界一豊かな国のはずなのに、なぜ同じようにできないのか、とマイケル・ムーアは問う。
最後のエピソードはかなりショックだった。
9/11で崩壊したビルの瓦礫の中で、たくさんの消防士やヴォランティアが救援活動を手伝っていた。彼らの中には、過酷な作業で呼吸器や内臓を害したり、不眠症になり、激しい歯ぎしりのため歯がボロボロになってしまった人など、心身の不調に悩まされている人がいる。だがアメリカ政府は、身を挺して働いた彼らに、何の補助もしない。マイケル・ムーアは彼らを連れてキューバへ行く。そこでは、医療費が無料で、アメリカでは$125もする薬が5centで手に入る。かつては敵国だったキューバ、はるかに貧しい国とされるキューバで、彼らは一流の治療を受け、訪れた消防隊では同士として歓待される。無償のmedicare と respect、どちらもアメリカでは得られなかったモノだ。
この映画に描かれた各国の医療保険制度が正確かどうか、問題点は全然ないのか、ぼくは知らない。ただ、アメリカでは富の極端な偏在が社会システムを侵していることはわかる。幸福な家庭と豊かさの象徴だった中産階級はもういない。オーストラリアや日本ではどうか?いろいろなことを考えさせてくる映画だ。

2007年08月07日

「Fracture」Gregory Hoblit

「Fracture」はもちろんあのAnthony Hopkins(アンソニー・ホプキンズ)が主演しているので観に行ったのだが、残念ながら、ハンニバル・レクターという知的な紳士にして殺人鬼の妖しい魅力を描き出した傑作「羊たちの沈黙」に比べるとひねりが少なく、星2つといったところ。映像もあまり面白くなく、映画館で観る必要がなくて、TVの画面で十分だ。
Fractureとは、割れ目、裂け目、破裂、骨折、転じて物事の進行がバラバラになる、という意味だ。どんなに完全犯罪に見えても、ほころびがあるということなのだろうが、この映画でも魅力的な殺人者を演じたアンソニー・ホプキンズは、終始若い検察官を手玉にとり、法廷でも自分で自分の弁護をして無実を勝ち取るほど悪知恵にたけているのに、ラストであんなに簡単に負けて欲しくなかったなと思う。

2007年07月31日

「Harry Potter and the Order of the Phoenix」

「Harry Potter and the Order of the Phoenix」を観てきた。
公開されて2週目だし、午後3時の回だったせいか、観客は6人しかいなかった。
今回の新しいキャラクターでは、ホグワーツを統制すべく送り込まれたアンブリッジ先生が一番気に入った。衣装から部屋のインテリアまでピンクが大好き。紅茶に3杯も入れるお砂糖までピンク。壁を埋め尽くす猫の絵皿はぼくも欲しくなった。そんな女らしい趣味と女王の様な振る舞いとは裏腹に、がんじがらめの規則と厳しい処罰が大好きという独裁者だ。イメルダ・スタウントンの憎たらしい演技は見事。「Freedom Writers」でも実に嫌な教師役をやっていた。
他にも、ルーナを演じたイヴァナ・リンチはとても可愛いし、不思議な雰囲気が良く出ていた。ハグリッドの弟の巨人もシュレックみたいで、不細工なのに妙にかわいい。
ただし、印象に残る細かいシーンはたくさんあるのだが、肝心のメインストーリーがわかりにくい。というか、どの程度深読みすればいいのかがわからない。次回への伏線もあるのだろうが、ちょっと説明が不明瞭だ。
情緒不安定でいらいらし、悪夢に悩まされていたハリーが、自分は愛と友情を知っていることに感謝する、という最後はいいが、チョウにひどく冷たい態度を取って、それっきりなのは気にくわない。あんなに長いファースト・キスしたくせに(^.^)。
映画としては、前作までの方がおもしろかった。ハリー・ポッターのシリーズはこれで5作目。子供たちももう大きくなり、かわいらしさや魔法世界の珍しさだけでは、ストーリーがもたない。いくら魔法合戦に凝っても、それではスター・ウォーズと同じになってしまう。完結までもう少し。次作に期待したい。

2007年06月26日

「The U.S. vs. John Lennon」David Leaf & John Scheinfeld

lennon.jpg
「The U.S. vs. John Lennon」USA 2006
Directers:David Leaf & John Scheinfeld

雨の中、パディントンへ行って「The U.S. vs. John Lennon」を観てきた。パディントンには映画館が3軒あって、ちょっと他とは違ったセレクションで面白い。
この映画は、ヴェトナム戦争を進めるアメリカ政府に反対し、Love&Peaceを訴え続けたジョン・レノンのドキュメンタリーだ。1960年代後半から、彼は様々な反戦運動にかかわり、デモ隊は「Give peace a chance」を合唱してホワイトハウスを取り囲んだ。そのためニクソン大統領やFBIはジョン・レノンを一種の扇動家、要注意人物としてマークし、アメリカから追い出そうとした。それでもニューヨークが気に入ったジョンとヨーコは苦労してグリーンカード(永住権)を手に入れた。同時期に息子のショーンが生まれ、ジョンとヨーコはつかの間の幸せを得る。子育てするジョンは本当に楽しそうだ。
ただこのドキュメンタリーは、ぼくにとってはあまり新しい情報がなく、リアルタイムで見聞きしてきた事実をあたらめて復習しましたといった感じだ。映画としては、「Copying Beethoven」のようにフィクションを補助線に使って、現実の新しい局面を描き出すほうが好きだ。
映画の中でヨーコが語るように、ジョン・レノンは死んでも、彼の歌はいつまでも残るだろう。
「War is Over」の下に小さく書かれた「if you want it」というセンテンスが印象的だ。この命題が正しければ、「戦争が今も終わっていないのは、あなたが望んでいないからだ」ということになる。
戦争が終わることを望まないのは誰か?
はたして平和にチャンスはあるだろうか?

2007年06月18日

TVで観た映画2本

 このところ雨ばかりなので、ついついTVを観る時間が多くなった。うちではケーブルTVを引いていて、Movie Channelも契約しているので各国の映画が観られる。そんな中で偶然見つけた掘り出し物の二つの映画。

■「La Grande Bouffe(最後の晩餐)」フランス/イタリア 1973年 監督:Marco Ferreri マルコ・フェレーリ。
フランスらしい、悪趣味に満ちた傑作だ。ご清潔なマクドナルドがはびこるアメリカでは絶対に作れない。人生に飽いた4人の男たちが死ぬまで食い続ける物語で、下品で猥褻、ウン・ゲロ・エロのオンパレードだ。彼らの一人はシェフなのだが、食っているモノがどれも美味しそうに見えない。ただひたすら大量に食い続けるだけだ。真っ昼間に夫婦で観るにはふさわしくない映画かもしれないがとても面白かった。同じくバッド・テイストの傑作、ジョン・ウォーターズの「ピンク・フラミンゴ」には欠けていた「食の魔」がここにある。

■「誰も知らない(Nobody knows)」日本 2004年 監督:是枝裕和
社会と親から見捨てられた子供たちの物語。思わせぶりな長回しのカットが多すぎるが、子供たちの演技は皆すばらしい。主役の柳楽優弥はきれいないい眼をしている。子供たちをネグレクトしてしまった母親役のYOUも、あまり憎めないように描かれているのが効果的だ。この映画のモデルになったという、実際に起きた事件のほうはもっと悲惨な状況だったようだ。その事実に拘泥せず、淡々とした描写に徹したことは好ましいが、現実に拮抗できる物語の強さとしては、たとえば山本直樹の「フラグメンツ」や「ありがとう」のほうが上だと思う。

2007年05月29日

「Pirates of The Caribbean : At World's End」

Endeavour.jpg
 今日は「Pirates of The Caribbean : At World's End」を観てきた。前2作よりももっとスケールが大きくなり、奇怪強烈なキャラクターが一杯で、2時間30分、飽きずに楽しめる。
 冒頭で、捕らえられた海賊たちが次々と首吊り処刑にされていくとき、一人の少年が静かに歌を歌い出し、それが広まっていくシーンは感激的だ。最後の戦闘シーンで、砲撃されて沈んでゆくイギリス船の名前が「Endeavour」なのも興味深い。Endeavour号は、1770年にイギリス人のキャプテン・クックがオーストラリアを「発見」したときの船だ。映画の中で、Endeavour号の船長室に世界地図が壁に貼ってある。そこに描かれているオーストラリアは、半分くらい空白になっているので、「発見」前なのだろう。
 ストーリーはとても複雑なので、数人で観て、細部を補うのがいいかもしれない。映画が終わった後、ぼくらの周りの人たちもあれこれ話し合っていた。
 上の写真は、復元されたEndeavour号。シドニーのダーリング・ハーバーにあるMaritime Museumに係留されている。